初春を予感させる好天に恵まれた日曜日、
久しぶりに電車を乗り継ぎ美術館へ行った。
練馬区下石神井にあるちひろ美術館 である。
西武新宿線上井草駅から徒歩で10分弱。
穏やかな住宅街の一角にある。
友人と待ち合わせの高田馬場でランチをすませて、
午後早いうちに西武新宿線に乗り換える。
学生たちが少ないぶん、今日は人の流れも緩やかなようだ。

私は上京して初めて住んだ町が荻窪、それから下井草になる。
美術館からはそう遠くないところに住んでいたはずなのに、
この美術館には、実は一度も足を運んだことがなかった。
6年ほど前に今の町に引っ越してからは
ぼんやりといつか訪れてみたいと思いながら、
わざわざ行くには遠すぎるように思い腰が重くなっていたのだ。
今回は友人が一緒に行ってくれるというので
思いきって足をのばすことができたのだったが、
なにしろもう何年も訪れることのなかった場所である。
近隣の友人たちともすっかり疎遠になり、
もしかしたらもう訪れる機会もないのではと思っていたのに、
こうして友人と電車に揺られ、また同じ景色を眺めることができるとは。

そういえば最近読んだエッセイに、
「旅とは、人生そのものだ」という一節があったことを思い出す。
しばしば耳にするフレーズではあるけれど。
こう言い換えてもいいだろう。「人生とは、旅そのものだ」
私はときおり、たとえば何か悲しい思いに取りつかれた晩などに、
もうこんなところまで来てしまった、
となかば絶望的に思うことがあるのだけれど、
本当はまだ、こんなところまでしか来ていないのかもしれない。
思い出のつまったこの場所が、
実は電車を乗り継いで1時間弱で来られる近さにあるのだと知って、
ふいに笑ってしまいたいような気分になった。
人生なんて、案外とそんなものなのかもしれない…。


…冒頭から、ずいぶんと脱線してしまった。
気を取り直して、話を美術館に戻したい。

上井草駅を降りて駅前の小さな商店街を抜け、
ゆったりと並んだ住宅街を奥へ奥へと歩いてゆくと
目的のちひろ美術館である。
道順は駅前の地図と角かどの電信柱に貼られた広告とが
案内役を努めてくれるので、初めて行くにも不自由がない。
周囲の住宅とほぼ同じ高さに建てられた美術館は
薄いワインレッドのような優しい色合いで、
たっぷりの緑とともに穏やかな住宅街に溶け込んでいた。
その姿はあたたかみを感じさせて、どこか可愛らしくもある。
一枚記念に、と思わず携帯電話を取り出し
写真を撮り始めた私に、友人が「いいよいいよ」とつきあってくれる。
友人は、美術館前に置かれた子馬と子どものオブジェに
心を惹かれたようだった。丸みを帯びたラインが愛らしい。

さて、2ヶ月ごとにテーマが変わるという展示室の
今回のテーマは「ちひろの子ども歳時記」(~1月31日)
というものであった。
5つの季語に見立てたテーマに沿って、
ちひろの描いた子どもたちの絵を彼女の言葉とともに紹介している。
友人も私も、彼女の原画を見るのは今回が初めて。
にじみの濃淡がつくり出す輪郭のなめらかさや表情の豊かさ、
柔らかな鉛筆でたっぷりとひかれた線の美しさに釘付けになった。
計算され尽くした完璧な線と色なのに、まったくと言っていいほど
その筆には迷いがなく、繊細でいながら実におおらかなのである。
季節の移ろいのなかで、風や光や音を大人以上に
敏感に受け止め、のびやかに育つ子どもたちの
表情がなんとも言えず愛らしく、自然と頬が緩んでしまう。
そしてまた、そんな子どもたちに向けられる
ちひろのまなざしの愛情に満ちてあたたかなこと。
アトリエを再現されたコーナーもあり、そこでは
ご子息が幼い時分彼女のアトリエを遊び場にして育たれたと
いうようなエピソードも紹介されているのだけれど、
実際に子どもをよく観察し描かれていることをあらためて感じた。

下手な感想を述べるのもおこがましいようで気が引けるのだけれど、
眺めるほどに感動の思いが込み上げて飽きるということがなかった。


再現されたアトリエから貴重な資料と絵本が集められた図書室、
企画展の「ノルテンシュテインの絵本づくり展」まで(これも素晴らしい)
ゆっくりと時間をかけて眺め、帰りにはミュージアムショップで
ずらりと並べられたポストカードや絵本の数々におおいに
悩ましい思いをしながら、近いうちにまた訪れようと心に決めていた。
今度はきっと、草の香りが濃さを増す気持ちよい春の日に…。


ちひろ美術館HP